「周利槃特(しゅり・はんどく)」

 
釈尊の弟子の一人に
「周利槃特/チューダ・パンタカ(Cuuda-pantaka)」という沙門がいた。
 
『仏説阿弥陀経』では、釈迦弟子たちの名の七番目に
「周利槃陀伽(しゅりはんだか)」という名で登場する。
 
聡明な彼の兄、摩訶槃特(マハー・パンタカ)に比べ、
周利槃特は、非常に物覚えが悪く、自分の名前すら忘れてしまい、
自分の名前が書かれた札を、背中に貼られていたというほどで、
我が弟を不憫に思った兄の導きにより、彼も仏弟子となって修行をしていた。
 
物覚えの悪い周利槃特に、釈迦が言った。
 
「ではまず、短い言葉から教えるから、
 それを毎日称えて覚えてごらん?」
 
「はい、頑張ります!」
 
「三業に悪をつくらず、
 諸々の有情をいためず、
 正念に空を観ずれば、
 無益の苦しみはまぬがるべし」
 
(悪いことを思ったり言ったりせず、諸々の命あるものを傷つけず、
 どんなことにも執われなければ、つまらない苦しみは消えてしまう)
 
しかし、今、釈迦から教えてもらったばかりの言葉すら、
三歩ほど歩いたら、もう続きを忘れてしまい、
釈迦のところに引き返しては、また同じ言葉を習うという始末で、
周利槃特は、そんな自分の愚かさを心から悲しんだ。
 
あまりにも愚かな弟の姿に呆れた兄の摩訶槃特に、
修行を続けることを諦めて、郷里へ帰るように諭された周利槃特が、
精舎の外に一人佇み、静かに泣いていたところ、
釈迦がその姿を見て、彼に近付いて来た。
 
「周利槃特、何を泣いているの?」
 
「世尊よ、私はどうしてここまで愚かなのでしょうか。
 このままでは到底、あなたの弟子など務まりません」
 
「それは違うよ、周利槃特。
 自分の愚かさを知る者こそが、智慧ある者なんだ。
 自分の愚かさに目を向けず、自分が賢いと思う者こそを愚者と言う。
 お前は自分が愚かだと、既に知っているじゃないか?」
 
なおも落ち込む周利槃特に、釈迦は一本の箒を渡した。
 
「お前はこの箒を持って、今日から毎日、精舎の掃除をしなさい。
 そして、掃除をしながら『塵を払い、垢を拭わん』と称え続けるんだ。
 これだけ短い言葉なら、お前にも覚えられるだろうからね」
 
その日から周利槃特は、釈迦に言われた通り、
ただ一心に、『塵を払い、垢を拭わん』という言葉を称えながら、
来る日も来る日も、精舎の掃除だけに徹した。
 
やがて、彼の心の中に、一つの疑問が沸き起こった。
 
「“塵”とは何だろう? “垢”とは何だろう?」
 
周利槃特は、延々と掃除をしながら何十年も考え続け、
終に、それが自分の心の中にある『三毒』に他ならないことに気付く。
 
※【三毒】むさぼり(貪欲)・いかり(瞋恚)・おろかさ(愚痴)
 
「どんな人の心の中にも、この三つがある」
 
このことこそが、釈尊の教えであることに気付いた周利槃特は、
一心に箒を持って掃除をすることだけによって、
阿羅漢の覚りを得ることができたのである。
 
 
人は誰でも、「愚か」と思われるより「賢い」と思われたい動物である。
 
学校の成績が悪いよりは、少しでも優秀な方がいいし、
社会に出て出世できないよりは、出世できた方がいいし、
小さな家に住むよりは、大きな家に住みたいと思うし、
損をするよりは、得をして暮らしたいと願う。
 
僕はそれを悪いとは思わない。
人間にあって当たり前の感情だと思う。
 
しかしながら、そう思って暮らすこととは、
自分以外の「何か」や「誰か」と、
常に比べて生きていることにならないだろうか。
 
本当の「賢さ」とは何で、
本当の「愚かさ」とは何なのだろう。
 
商売や出世ばかりに夢中になっていた頃の僕には、
天地がひっくり返っても思い浮かばない疑問だった気がする。
 
人間の知恵とは、要領が良く、知識に優れることを目指すものであるのに対し、
仏の智慧とは、完璧な人格や、欠点のない人間を造り出すことを目指すものではない。
 
『人知(にんぢ)』と『仏智(ぶっち)』という、「知恵」と「智慧」の決定的な違いは、
「このままではいけないのではないか?」と我が身を勘繰る「小賢しい」自力に対し、
「そのままの自分以外の何者にもなれない私である」という“現実”を、
全くの自然(じねん)に遵って受け止めさせられる、
抗いようもない他力のことを指しているのだと、僕は受け取っている。
 
「謙遜」と「謙虚」は、似ているようで大きく異なるものである。
 

ぐり♪ について

1963年 石川県金沢市生まれ 真宗大谷派教師
カテゴリー: 浄土三部経   パーマリンク

「周利槃特(しゅり・はんどく)」 への2件のフィードバック

  1. ポン太 より:

    こんばんわ
     
    お忙しそうですね^^
    他の人と比べて自分がより良い物を食べたり、着たり、住んだりすることで
    幸せを感じることでは、一生幸せを得ることができないですね^^
    自分独自の判断基準を持たないといけないな~と思います。
     
    日本は競争社会なので、その中で生きていくには大変ですね(`´)

  2. より:

    ポンちゃん、こんにちは。
    大変ご無沙汰しておりました。
     
    法要なども多かった上に、二週間の間に三度も葬儀が続き、
    何となく気が晴れなくて、なかなか更新できませんでした。
     
    競争社会を生きなければならない私たちですが、
    社会の基準で量る「賢さ」を得ようと努力することで、
    却って足下を見失ってしまうことも多々ある気がします。
     
    在家仏教の私たちには、
    釈迦の教えを、そのまま当てはめることは難しいですが、
    愚者でいることの方が、時には賢者となり得るのかもしれません。
     

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