ネズミ

昨年から色々と考えることがありまして、
新年のご挨拶を怠っておりました。
もう既に6月ですが、
「新年、明けましておめでとうございます」(ホントごめんなさい)

で、本題。

自室の天井を、夜な夜な走り回る人たちが増え始め、
当初は、
「200g(想定)くらいのだから小さいし、3匹か4匹くらいなら、まぁいいか」
と、そんなに腹も立てずにいたんだけど、
だんだん人数が増え始め、
怒鳴り散らさないと静かにならなくなって、
家屋の様々なところにうんちが撒き散らされることに(汗)

僕は「退治」とか「駆除」という言葉が、
どうしても「自分の都合」みたく聞こえて、
業者に頼んで追い出してもらうことも頭にはあったんだけど、
もし追い出せば、近隣のお宅に引っ越して行くことになり、
右隣の神社には食べる物がないから行かないだろうし、
だからと言って、
左隣の「よしえちゃん」ちに行ってもらっても困るし、
自分の言い訳としては、取り敢えず、
「家賃を払わないで他人の家に間借りをするとは何事か?」
ということにして、
「猫いらず」みたいな、
めっちゃショッキングピンクの「毒餌」を買って来た。

うんちが落ちている界隈に、
説明書き通りに、そういう毒餌を設置して行くんだけれど、
ってことは、
「いつか彼らのご遺体を見なければならない」んだなと、
うっすらと思っていた。

設置から3日目に、
玄関の僕のスニーカーの横に、
一人目の犠牲者が転がっていた。

そっと紙にでも包んで、庭に埋めてお参りしようか、
それとも、箒と塵取でさっと取り上げて、このまま生ゴミのペールに葬ろうか、
ものすごく迷った。

僕は、「阿難」と「チューダ」という2匹のチワワを飼っていて、
これがもし阿難だったら、これがもしチューダだったら、
おいおいと、涙も枯れるまで泣いて抱きしめて、丁寧にお経をあげて墓に葬るのに、
自分が毒を食べさせて殺害して……。

随所に設置したピンクのご飯は、見る度にどんどん減って行く。

「よしよし、食べてるな。うひひひ」

そう素直に思えなくなって来る。

自分が善いことをしているのか悪いことをしているのか、
15年ほど生きる血統書付きの犬なら大切で、
僅か3年ほどしか生きられない名もないネズミの命はどうでもよくて?

しかし、毎晩のように天井の裏で楽しそうに運動会をされても、
うるさくて堪ったものではない。

2匹目の犠牲者は、阿難たちのドッグフードの近くで倒れていた。

ネズミが死ぬ間際に、悲しいとか無念だとか、
「最期に美味しい物を食べて死にたかった」などと、
どんなことを考えていたのかは分からないけれど、
箒と塵取でコロンと掬って、ペールに落とした瞬間、

「阿難やチューダが亡くなったとして、
 それを箒と塵取で取って、ゴミ箱に入れられるのだろうか?」

しかし毎晩の運動会は続く。
夜中に眠れなくて、あまりにも怒り過ぎて、
天井のダウンライトの隙間から、
ネズミが大嫌いな臭いが出るとかいうスプレーを撒き散らしてから、
音がしなくなった。

どこかに引越したのだろうか。
どこにもうんちが落ちていない。

ツバメやコウモリみたいな益獣が、
数ヶ月だけ僕のお寺に棲んで、
また今年も海を渡って帰ってしまう時の、
寂しいけど幸せな気持ちになるのとは違って。

あの運動会に、あんなに腹を立てていたのに、
いい人なんだか悪い人なんだか、
それすらも自分で分からなくなっている、
僕は自分が嫌になった。

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正しいことなどひとつもない

正しいことって、
都合が判断することだ。

基準はいつも曖昧で、
「あの方にやさしくしていただいた」
と言っていた人が、
ひとつ自分の都合が変わった瞬間、
「あんな人だとは思わなかった」
って言うんだ。

お前は国王か?

文句ばかり言っている人を、
愚痴ばかり言っている人を、
僕は、

「あんた、いつから国王になったの?」

って思っちゃう。

自分の判断の基準すら、
自分の都合に因って曖昧だ。

都合の良い時は、

「あんないい人はいない。仏さんみたいな人だ」

とか言うのに、

一転して、自分の都合が変わると、
相手は何も変わっていないのに、
自分の身の回りが変わった途端、

「あんな人だとは思わなかった、悪人や。ひどい人や」

とか言い出す。

お前がブレてるだけじゃん? と僕は思う。

「騙された」と言う言葉は、
それ以前に、自分が何かの利用性(メリット)を感じて、
自分の欲のために、相手を利用しようとした人が言う言葉である。

僕は僧侶として、精一杯の努力をしているけれど、
一般的に評価されやすい方法論を選んでいるだけであって、

「おまい? それは違うぞ?」

ということについては、
絶対に相手を逃がさない。

聞き捨てならない話は、
どこまでも追い込んで追求する。

どれが正しいか、
どのことが正しくないか?

「正しい」ことなんて、
いつもいつも変化し続けることを、
人は能く能く享受しながら生きて行かねばなるまい。

時代・国家・文化。

変化するから「人」なのであって、
「人」が創り上げようとするからこそ、
「正しい」とされることは、
常に変動し続ける。

それを受け止めながら生きて行くことをこそ、
「正しい」って言うんだよ。

「やさしい」って言葉も同じだ。
都合がいいのに作用すれば、
「やさしいね」って言うけど、
都合が悪くなると、
「冷たいね」って言う。

だから、
「正しい」なんていう言葉なんて、
元々存在しないことを、
僕たちは分かって生きて行かなきゃならないんだ。

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思い出に生きても、人生は片付くのか?

考えられない。

僕は100000%否定する。

雑だなと言うより、
非常に傲慢だなと思うよ。

悲しみの主体が自分でしかなく、
主人公が自分だと確信しているところに、
甘えと言うか、政治犯と言うか、
浄土真宗から見ると、
小奇麗さがないというか、
本当に雑で残念さがある。

しかも、親鸞に対する冒涜に近いと、
俺は感じている。

前に進め。

一人で生きて行きなさい。

振り返るな。

ちゃんと一度、自分と闘ってみなさい。

結婚や恋愛や家督相続を舐めてはいけない。

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翻弄

僕が法話に行って、
控室まで訪ねて来る人はたくさんいる。

その多くは、
僕のことを「先生」って言って来るのだけれど、
「これだけ勉強している」
ということを、
「よく勉強されましたね」
って、
お坊さんに御朱印を押してもらいたい人ばかりなの。

氷見に法話に行って、
そういうおじさんが来た。

何々先生の本も読んだ。
歎異抄も研究してる。
あのお寺にもこのお寺にも法話を聞きに行ってます。

彼は切々と、
自分の実績だけを語った。

「で? だから?」

「え?」

「だから何なんだよ?」

「は?」

「あなたは僕にマウンティングしているだけで、
 根本的には救かってないじゃない?」

「?」

「お坊さんをやり込めて、僕の方が勉強してるんだって、
 そう言いたいんでしょ?

 あのね?
 自分がたすかってもいないのに、
 浮輪も持たずに溺れている子供を助けようとする、
 その傲慢さに、あなたは気が付いていないの」

僕がばっさり言うと、
「実は、うちの次男に障害がある」
って言い出した。

それさえ言えば、坊主が黙るとでも思っていたのだろうか?

「障害の子供さんを抱えている人は山ほどいるし、
 特に私はびっくりもしないけど。
 で? 何を知りたいの?」

カードの切り方を間違えたことに、彼はやっと気が付いた。

殆どの真宗のお坊さんはやさしい。

彼は、いちばん会いたくなかった、
僕みたいな、いちばん面倒くさい僧侶に噛み付き、
地雷を踏んだ。

「何々先生の本も読んだ。
 あの先生のお話も聞いた。
 私を目の前にして、
 なのに一度もあんたは救かっていないじゃない?
 バカじゃないの?
 
 自分が勉強して来たことを、
 誰かに褒めて欲しいだけでしょ?

 私はあなたを褒めたり貶したりすることができない、
 そういう真宗の僧侶なんだ。

 あなたに対して、
 よくそこまで勉強されましたね。
 とか、
 いやいや、なかなか学んでおられますね。
 とか、

 そういう受け答えしかされないのが、
 今のあなたの姿だろうね。

 もったいないと言うか、残念と言うか、
 悲しい人だね。
 
 月曜の生ゴミの日にでも、
 あんたのその脳みそ、捨てたらいいんじゃない?」

「……」

「真宗を冒涜してもらっては困る。
 自分の名聞利益のために、親鸞と阿弥陀を使われても困る。
 やりたいんなら、手順を踏んで、お坊さんにでもなれば?」

「いや。実を言うと、次男が障害者でして」

ふっざけんな!

「で?
 息子さんがHDCPだから? 
 何をどうしたいの?

 お辛かったでしょうね。
 大変でしたでしょうね。

 それを私に言って欲しくて法話を聞きに来たんか?

 それは、聞いたフリでしかない。

 障害の子供を、後出しジャンケンにまで使うって何なんだ?

 あんたの子供に対しても失礼過ぎるわ」

弥陀に会ってしまえば、彼は救かると僕は思う。

彼は自分の「自我」に翻弄され続け、
いつまでも苦しみの世界から放たれることはないであろう。

真宗と言う、
目の前に生き易い道があるのに。

根本的な「怠け者」は。
怠け者だから己を正当化して止まず、
いつも、何もかもを他者の責任にして、
いつまで経っても稚拙な言い訳を自分に繰り返す。

誰かが自分を翻弄しているのではない。

生きる道が確定していないから、
自分が自分を翻弄している。

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感謝

感謝ってね。

感謝していない人ばかりが口に出す。

「ありがとう」って、
素直に言えない人が口にする、
とても不便な言葉だね。

僕、本当に大切な人はたくさんいるけれど、
プライドや、
本当に大切なことを、
自分で見抜けない人生を過ごしておられることが、
非常に上からものを見る人生を送っておられることが、

僕の人生で、
いちばん辛い。

ずっと、
生涯を賭して、
気が付くまで、
一緒に歩まなければならないんだろうなって思う。

僕は丁寧に親鸞と生きる、

僕は阿弥陀とずっと生きる。

自分が分かってるなんて思っている時点で、
他力を分かっていないんだからね。

任せることを知らないほどの、
智慧が分からない知識者はどうにもならない。

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難題は軟題

物事は、
起きてから考えればよい。

起きてもいないことを憂う暇があったら、
起きてから対処することに、そのエネルギーを使えばよい。

家が火事になった。

「何で? 何で? 何で?」

何で? じゃねぇんだよ。
焼けたのだ。
家がなくなったことは、
原因はともあれ、
とにかくもうないの。
ないものはないんだ。

子供を亡くした。
若しくは、親を亡くした。

「何で? 何で? 何で?」

何で? じゃねぇんだよ。
いないんだ。もう。
どこを探しても出て来ない。
原因が、事故でも病気でも逃避でも、
とにかくもういないの。
いないものはいないんだ。

「どうしてこんな目に?」
「何で自分ばっかりこんな思いを?」

それは違うよ。

苦悩というものは、
解決できる人の能力に応じたスケールでしかやって来ない。

キャパが小さい人には小さいスケール、
キャパが大きい人には大きいスケール。

ちゃんと、
その人のサイズに合わせて、
その人が受け止められる範囲で、
その人に解決させて、次の歩みを促すために、
阿弥陀が次々と難題を持ちかけて来る。

難題は軟題だ。

解決できない問題など、
初めっからやって来ない。

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人のことを考えて生きよう

国政は難しくなって来たなぁ。

投票率は、
著しく下がるだろう。

だって、誰に投票すればいいのか、
国民のみんなが、分からなくなっちゃってる。

あーあ。

日本の国民がこんなにバカだって、
世界中に言い触らしちゃったじゃん。

今、出なくても、
2年後の参議院から出ちゃえばいいじゃん?
誰かを辞任させて、
どうしてもやりたいなら、
補欠で出ても、方法なんていくらでもある。

このフライングが、国民の不安を煽った場合、
首都圏だけが国民ではない。

地方に暮らす人々をこそ、国民と言うのだから、
人を大切にすることと、
人を利用してのし上がることは違う。

人の上に立つ時は、
人を下に思ってはいけないと、
僕は思う。

だってね?
本当の思いが伝わらなくなっちゃうんだもん。

誰よりも大切にしたい人たちと、
僕は、静かに生きたいし、
僕は、静かに死にたい。

僕、真宗門徒でよかった。
道徳や政治に惑わされない自分でよかった。

選挙、行けないなぁ……。
投票率が下がる。

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