二日ほど前に、
以前にも、一度お話を伺った方から電話がかかって来た。
彼女は、僕のおばあちゃんの著書を読んで、
電話で相談をして来たことがあったらしく、
去年だったか、電話をして来られた時に、また相談があったみたいだったので、
「あー、おばあちゃんは2005年に亡くなってしまっていて、
今は、孫の私が住職をしているのですが」
「そうでしたか。
もう何年も前のことなんですが、当時はとてもお世話になったというか、
もう一度、お話させてもらえたらと思って、今日はお電話したんですけど」
その時の話は、何の相談だったか、内容は忘れてしまったんだけど、
当時の彼女の新たな相談(というか愚痴)に答えながら、
「この人はこの先も、きっとまた電話をして来るだろうな」
と思って、相手の携帯番号を登録しておいた。
「はいはい、〇〇さん。お久しぶりですね」
相手が名乗らぬ先に、そう言いながら電話に出ると、
僕に覚えていてもらってよかったと安心したように、
「ご無沙汰していて申し訳ないんですが、
どうしても心が落ち着かないことがあって」
(そもそも、何も悩みのない人が、挨拶だけで僕に電話して来る訳がない)
と、今回の悩み話を始めた。
最近の出来事のようだが、
簡潔にまとめると、以下の3項目になる。
①彼女の30代の甥と姪に、それぞれ何かお祝い事があったらしく、
いろいろ考えて「お祝い」を贈ったところ、
その二人ともが「お返し」をして来ないので、
近頃の人たちというのは「お礼」をひとつも言って来ないのかしら。
②甥からも姪からも、贈ったお祝いに対して何のリアクションもなかったので、
それぞれの親(彼女の兄と妹)に、
お祝いを贈ったのにも拘わらず、本人たちから何も返答がないことを尋ねると、
当事者の親二人ともが「知らなかった」的な反応だった。
③「せっかくお祝いを贈ってあげたのに、失礼しちゃうわ」
と思って、最近ずっと腑に落ちない思いでいるんだけど、
これってどうなんですかね?
(本人が一番イライラしているのはこの③である)
僕は、取り敢えず、彼女の話を「ふむふむ」と聞き流しながら、
それぞれについて、三つに分けて答える話し方を考えていた。
「つまらないことなのかも知れないんですけど、
私、ずっとこのことで悩んでいまして、
先代のおばあさまにご相談させていただいた時も、
以前、お孫さんのご住職さんにお話させていただいた時も、
とてもすっきりしたお答えをいただいた記憶があったので」
はい。
僕も、僕のおばあちゃんも、すっきりする答えしか出しません。
「先ずね。
お兄さんの息子さん、っていうか甥御さんにしろ、
妹さんの娘さん、っていうか姪御さんにしろ、
その親である、あなたのお兄さんや妹さんの、
それぞれの親としての考え方でしょうね」
「と言いますと?」
「そういう、『配慮がない』人たちって、
家系がみんなそういう人たちなんだってことなのよ」
(ここは取り敢えず、相談者の味方をしておいて引っ張る)
①「僕の親とか親族(僕のママとか叔母ちゃんたち)なら、
自分の叔母さんから何かのお祝いをもらったのなら、
お祝いで頂いた金品の半分くらいとか、
お見舞いだったら3分の1くらいじゃないと失礼に当たるよとか、
そのお祝いとかお見舞いとかに見合った状況の範囲で、
きちんとお返しをしておくものなんだからね。と、
そういう礼儀礼節みたいなことは、ある程度うるさく教えてくれてるけど、
それは、僕が、僕の親族から教えてもらってるから知っているだけのことで、
そもそも、その親御さんの育て方ってことだろうから、
甥御さんや姪御さんたちみたく、
30代のお子さんたちには分からないんじゃないの?」
「あー、そうかも知れないです。
考えてみたら、私の兄も妹も、そういう礼儀みたいなことは、
あまり関心がないのかも知れません。
私も一度、お祝いを贈ったことを連絡はしたのですが、
ふぅーんっていう感じの反応でしたので」
(よし、ここでちょっと尻尾が出て来た)
②「うはは。
んで、それをお兄ちゃんとか妹さんに電話しちゃったの?
そんなことに関心がないようなおうち方のご子息にお祝いを贈って、
お礼が返って来ないって親に言っちゃうって、それもすげえな。
あなたは何を期待していたのかね。
どうなんでしょう?」
「そもそも、兄と妹は仲が良いみたくて、
母の三回忌も兄のところだけで法事を済ませるからと。
でも、後日になって、妹も法事に出ていたようで、
私だけが外されていたようなんです」
(日頃から、本人のそういう行動がいちいち面倒くさいと思われてるから、
法事に呼ばれないんだろうなぁ……)
③「うん。
これで見えて来たじゃん?
お兄さんも妹さんも、あなたと仲良くする気がないんだよ、多分」
(こういうことは、おかしな配慮をせず、むしろ辛辣に言うべきである)
「考えてみれば、兄はいつも私を認めてくれるところがなくて、
何か言えば、お前は黙ってろみたいな。
妹にはそういう感じはなかったんですけど……」
(それは相手が面倒くさいお姉ちゃんだから、妹が口に出さなかっただけかも)
やっと話の本筋が見えて来た。
この人が救かる方法は、自分を知ることしかないので、
僕は話し始めた。
「先ずね?
お兄さんのお子さんや、妹さんのお子さんのお祝いを、
あなたが贈ってあげたいと思ったから送った。
そこまでは良かったのよ。
でも、あなたは、そのお返しを期待していたんだよね?」
「……」
「自分が人に何かを贈る時は、
『おめでとう』なら『おめでとう』で、
お祝いしたいっていう、それだけの気持ちで十分なのに、
『お祝いをしてあげたのにお返しもよこさない』って言っちゃたとしたら、
それって、本当に『おめでとう』なのかな?
『ありがとう』って、言って欲しくて人に施すっていうか、
『見返りを期待して、裏切られた』みたいな話なら、
最初から何もしてあげなきゃいいじゃない?
対価や評価を求めて物事を起こすから、
話が恩着せがましいことになって、結局は自分に返って来ちゃったんでしょ?
それって『かまってちゃん』だよ」
「あははは! 私って『かまってちゃん』なんですね」
「法事を外されたとか、そういう『面白くない根拠』の裏返しだったとすれば、
ちっとも『おめでとう』とは思ってなくて、
お兄ちゃんたちの子供の祝い事に託けて、
お祝いを贈ることで、自分を認めさせようとしたんじゃないんか?
そうやとしたら、汚ねぇお祝いやなぁ」
彼女は楽しそうに笑いながら言った。
「あははは!
今、すっきりしました。本当にそうです。
今、ご住職が話してくださったとおりです。
私、今、自分に気が付きました」
僕には、彼女の家族間のそもそもの関係が分からないし、
お兄さんたちに会ったこともないので、
その中の一人だけの言い分しか聞いていないから、
どっちが「正しい」とか「悪い」とかも言えないし、
彼女のお兄さんも妹さんに対しても、
昭和生まれのコモンセンスとして考えれば、
何だかおかしな出方をしているなぁとは感じるが、
だからこそ、
そんな性格の合わない親族と、無理に付き合わなければいいと、
彼女に対してはそう思う。
大体、60代にもなった人間の性分なんて、お互いに変わるはずがないのだから、
変わることができるとしたら「物事の受け止め方」だけなのだ。
今日はそれを彼女に分かってもらうしか、阿弥陀による救済の道はない。
僕は続けて話した。
「お兄さんも、あなたも、妹さんも、
みんなお孫さんがいらっしゃるような年齢だよね?
私は独身だから、子も孫も何も、犬くらいしかいないけど。
あなたもお嫁に出ているのなら分かると思うけれど、
いくら、小さい時は一緒に寝ていた兄弟でも、
みんな結婚して、それぞれの家庭を持って、
況してや、お孫さんまでできてしまうと、
じいちゃんとばあちゃん、
長男(長女)に 嫁(婿)、
次男(次女)に 嫁(婿)、
そこにプラスして、それぞれ、いとこ同士になる孫まで増えるわね?
三代目になる孫までできると、
そこはみんな『分家』しちゃって、それぞれ『ひとつの家系』になってしまうから、
食べる口が増えるのと同時に、賛否の意見を言う口も同じ数だけ増える。
だからもう、子供の時のお兄ちゃんとか妹じゃなくなちゃってて、
それぞれ、じいちゃんとかばあちゃんになっちゃってるのよ」
「うん。確かに、考えてみればそうでした」
「みんな、それぞれ、価値観も変わるし、
あなたが良かれと思っていても、
お兄ちゃんの奥さんの考え方が違ってたら仲良くなれないし、
妹さんのご主人や子供さんたちの考え方が違っていても、
それはそれで仕方がないじゃない?
問題は、あなたが自分の価値観を兄妹に押し付けているだけで、
相手が同意しなければ、徒労でしかないじゃん?
私はあなたが間違っていると言っているのではないの。
あなたがあなたの基準で生きようと思えば、
あなたと違っている人にも会うだろうし、
考え方がそれぞれ違ったとしても、
それはそれでいいんだってば。
『いい人』というのは、自分にとって『都合のいい人』なのであって、
『あの人は本当にいい人だ』って言ってても、
自分の都合に合わなくなった途端、
『あんな人だと思わなかった』ってなるでしょ?」
「うんうん、ほんとにそうですよね。あははは」
「今、あなたに宝くじが10億でも当たろうもんなら、
お兄さんも妹さんも、手の平を逆返ししたみたいに、
飛んで寄って来ると思うわ」
「わははは!」
「人間というものは、
どの人もみんな自分中心で物を考えるし、
自分の都合だけで生きている生き物なんだから、
頼んでもいないお祝いをもらって、困る人もいるかも知れないし、
お礼もして来ないと思っても、贈る側の身勝手だったのかも知れないし、
『お祝いをもらったら、きちんとお礼をしなさい』って、
社交辞令的な形で躾けてくれてたとしたら、
本当は、我が子に恥をかかせないように躾ける以前に、
親本人が、自分が恥をかくのが嫌で躾けてたのかも知れないじゃない?」
「本当にそうですね。
私、何だかとてもすっきりしました。
おばあちゃんの時もそうでしたけど、
お二人ともはっきりおっしゃって下さるでしょう。
それで私はいつもすっきりするから、今日もお電話したんだと思います。
私、いつもいつも、先生の本を読んで、
ああ、本当にそうだなぁって、思い返させられていたんですけど」
「あなたが、私のおばあちゃんの本の内容を『知っている』のと、
あなたが、私のおばあちゃんの言っていることを『分かった』のとは違います。
『書き手』や『話し手』が、その経験値の上で表現していることを、
『読み手』や『聞き手』が、その実体験の中に合致させることができた時に、
初めて本人の人生に間に合って行くものなのだから、
『読んだことがある』とか『聞いたことがある』だけでは、
本当の意味で、『読み手』や『聞き手』であるあなたのものにはならない。
私のおばあちゃんの時のたとえ話と、私のたとえ話は、
それぞれ表現こそ違うと思いますが、
二人とも同じことを言っているだけで、
仏教としての、法に変わりはないと思います」
最初は何だか、重そうな声で電話をして来た彼女は、
何度も何度も、僕のたとえ話に「わはははは」と笑いながら、
分からなくなっていた自分を捕まえ直したようであった。
人(世間)を追うと、人は自分を見失う。
しかし人は、自分を見失った時なら、仏法に耳が開く。
そして仏法は、耳が開いた人のところへやって来る。
人を追い、法を追わなければ、
人は、人によって傷付き、悲しい思いをする。
人が自分の思い通りにならないことに腹を立て、
自分が、勝手に、自分で傷付いてしまう。
法を追い、人を追わなければ、
人は「自己責任」を認識できるので、
誰かのせいで自分が傷付いたなどとという「被害者根性」がなくなる。
「人を追い、法を追わず」
ではなく、
「人を追わず、法に追われる」
ということが分かれば、
自然に、
「問題は自分(私)の中にある」
ということを、
恥かしいほどに、悲しいほどに、
我が身を知らされるのである。
このように僕は、
求道者としての自分を、
悩みを持った人にこそ、日々、育ててもらっている。
月影のいたらぬ里はなけれども
眺むるひとの心にぞすむ (法然上人)
阿弥陀には隔つる心はなけれども
蓋ある水に月は宿らじ (蓮如上人)