どんなことも

『師弟関係であろうが、友人であろうが、
 まず考えておかねばならなぬことは、
 人と人との交わりは、
 根本的に異なった人間であることが前提にならねば、
 交際に広がりと永続性がないということである。

 似たようなものが集まるように思うが、
 どこか似ているようなことで、友人だなどと思いこんでは心気臭い。

 まずもって相互に異なった間柄を自覚してからでないと永続きしない。

 親しかった間柄が離反していくことほど、寂しいことではないか』

※「これでよかった 私の歎異抄ノートより /高光一也 70頁 3行目」

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法話

今日は、生まれて初めて、
大谷派(東本願寺)ではなく、
本願寺派(西本願寺)のお寺さんでお話をして来た。

〇〇婦人会みたく、そのお寺さんの集まりみたくて、
40人か50人くらいの、多分、70代~80代くらいの女性が殆どだった。

僕は、お西のお寺で法話をしたことがなかったんだけど、
教義に若干の違いがあることから、
現世往生(東)と、後世往生(西)のことには触れず、
歎異抄の第三章から、
「善人なおもて往生をとぐ
 いわんや悪人をや」
という書き出しを引っ張って来て、
「善人とは何か? 悪人とは何か?」という、
自分が、いちばん話し慣れたことを話して来た。

細かいことは分からないんだけど、
本願寺派(お西)は、
「布教師」と言って、
本山に3ヵ月とか缶詰にされて、
みんな同じことしか言わないようにされているっぽい。

これはこれで、
浄土真宗が、口伝を継承し続け、
代が変わっても、同じ教えを遺して行こうとする考えとしては、
間違ってはいないと思う。

僕の所属する大谷派(お東)は、
「布教師」という認定制度はなく、
誰がどこのお寺でどんな法話をしても、
制限をかけられることもなく、
比較的「自由」な「放し飼い」である。

どうなんだろう?

僕のおうちは、自己責任であれば、何をしても咎められることなく育った。
その代わり、自己責任の範疇を超えて、何かをやらかした時は、
お咎めがあるというより、
おばあちゃんが階段に座って泣いていた。

僕が高校生くらいの時だったと思うけど、
何の基準を以って、僕がどのようになることを望んでいたのか、
それがどんなに親やおばあちゃんの意にそぐわなかったのか、
今でも分からない。

今日も僕は力いっぱい法話をして来た。

「こんなお話、初めて聞きました」

爆笑と拍手喝采の渦は、
僕が仕掛けたことなので、
結果論としては当然だし、
冷たく聞こえるかも知れないけれど、
嬉しいとも何とも思っていない。
だって、力いっぱい話したんだもの。

が、しかーし!

おうちに帰ってから、
「あ、西(本願寺派)の寺やった(汗)」
ということに気が付いた。

本願寺派は、布教師が、
みんな同じことしか法話をしないようになっているのに、
「こんなお話、初めて聞きました」は、
めっちゃマズイわって思った。

色んな考え方と捉え方がある。
それを、「どっちでもいい」「そのままでいい」と、
力いっぱい話して来たんだけど。

夕方、自分の寺に帰って、
「私の法話、大谷派の話しかしてなくて、大丈夫でしたか?」と、
気が小さくなって電話をした。

おばあちゃん坊守さんが出ていらして、

「あんな話、私も聞いたことがなかったです。
 布教師さんは、皆さん、同じことをお話されるんですが、
 今まで考えたこともなかったくらいで、
 またあの人の話を聞きたいって、反響がすごかったんですよ」

本当に僕は正しかったのだろうか。

力いっぱい、大谷派の法話をした僕の心に嘘はないが、
本願寺派の宗とすることとは、少し違っていたのかも知れないと、
小さな不安が拭い去れない。

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さて、今年も法話スタート

大好きなノブのお寺に、
3月6日から三日間、法話に行かなければならない。

悲しいかな、ネタがない。
勉強不足だからだと思う。

毎日、色んなことに出会っているのに、
毎日、色んなことを考えているのに、
楽しく眠れる日もあれば、
悲しくて眠れない日もあるのに、
自分の素直な言葉が思いつかない。

近所のエミちゃんがやってる居酒屋に行った。
隣に男の子がいて、横に座って話をさせてもらった。

彼は40代そこそこで、
介護用品のリースとかをする会社を立ち上げて、
自営で社長になって、20人ほどの人を雇っているみたいだった。

「僕、ちょっと考えてることがあるんですけど」

「うん、どしたの?」

30歳くらいの新婚の社員に(赤ちゃんも最近産まれたらしい)、
それまで何に使ったかは分からないんだけど、
サラ金から会社にまで電話がかかるみたくなって、
面倒なことになるのも嫌だから、その子の借金を200万くらい立替たんだけど、
その子は営業なんだけど、成績が上がるようなタイプではなくて、
本当はどうしたら良かったんだろうって。

無駄な無限大ループの話だなと思いながら、
ふむふむと僕は聞いていた。

「200万って、給料天引にするとしても、
 毎月2万とすれば、100ヵ月かかるよね?
 そすと、金利を付けなくても、8年ちょいかかるじゃん?」
(僕は元経営者なので、電卓を叩かなくても、即効で計算できる)

「そうなんですよね」

以前にもこのような相談を持ち掛けられたことがある。

十円でも千円でも一万円でも百万円でも、
人にお金を貸してあげる時は、
「返って来なくても腹の立たない金額」でなければならない。
「返さなくていいから(このままあげるから)、
 もう二度と借りに来ないでね」と、
それが本当の優しさというものではないかと、僕は思う。

僕は彼に言った。

「経営者である以上、貸したものは実力で返せと言うのが、
 彼に対する、厳しさかも知れないけれど、愛情でもあると思うよ」

「うん。そうですよね」

「犬を飼ったことある?」

「うんうん。僕んち、犬飼ってました」

「犬は、猫とかとは少し違っていて、
 幼い時(生後2カ月~半年)に十分な愛情を与えていないと、
 うんちやおちっことか、社会的なマナーを躾けようとしても、
 そもそも可愛がってない子は、ただただ『怖い』って思っちゃうから、
 うんちしたら、おちっこしたら、叱られると思っちゃって、
 排泄すること自体が悪いことだと思っちゃうのね」

「うんうん、それは分かります」

「人や社員を叱る時は、相手に対して、こちらにも相当の愛情があるんだと、
 泣くほどの、涙が出るほど、お前を愛しているんだと、
 それを本当に思って200万の肩代わりをしてやったのではなく、
 俺がしてやったという、
 もっと言えば、回収できんかもしれんけど、
 俺が払ってやったんやから、まぁいいわ 的な気持ちが、
 あなたにあったような気がするけど。
 どうなん?」

「ズバリです」

「今はどうにもならん社員かも知れんけど、
 あなたがこれから50代60代になって行く時に、
 本当に右腕になる人を育てておかなきゃならないんだから、
 表現は汚いかも知れないけど、
 こいつをきっちり『子飼い』にできるチャンスだと、
 どんな負もプラスに変えて行けるだけの、商魂の逞しさがなかったら、
 八百屋でも魚屋でも、やって行けないんだよ?」

「あー、そうか」

「できないヤツほど能く伸びる。
 自分と同じことができる人間を、三人、追って来させることができれば、
 本当の経営者になれると、
 私は元経営者なので、これだけは本当に思っているのね。
 今はお坊さんになってしまったから、事情が違ってるけど」

「うんうん」

「200万貸した相手を、上代でもいいから2000万円叩き出せる男に育てれば、
 原価率から考えても元は取れます」

「そんな考え方、僕にはなかったわ」

「だって、お金貸してるんじゃん? 200万も。
 なら、相手が逃げない限り、子飼いにできるんだから、
 その子の能力をどこまで伸ばせるかは、あなたの腕次第だと思うよ」

「うん」

「してやった と思い続けても、
 彼はお金を返さないで逃げるかも分からない。
 それなら、どこに出しても、俺の会社で育ててやるんだから、
 どこでも通用する男にしてやるのが雇用主の責任じゃないの?

 俺は社員に黙って200万肩代りしてやった、を、
 自慢にするようなあなたであっては元も子もないんだよ?

 社長という立場を守るなら、
 社員全般に対して必ず平等性を守らなきゃ、
 ほかの社員から信任を得られなくなっちゃうじゃん?」

「うーん。
 こんなこと、人に言われたことなかった。
 でも、僕、本当にそうだと思います」

人は、上に立てば立つほど、
自分を見失い、自己評価が過度になるという恐ろしい現象を起こし、
同時に、「注意してくれる人」の数を減らしてしまう。

初見の彼に、僕もかなりのレベルで厳しいことを言ったとは思うけれど、
真実から目を背けても何も生まないことを、
その根本に気が付かねば、
社長をすることも、住職をすることも、
僕は同じだと思う。

明日は何か新しい気持ちで話せそうな気がして来た。

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人を追い、法を追わず

二日ほど前に、
以前にも、一度お話を伺った方から電話がかかって来た。

彼女は、僕のおばあちゃんの著書を読んで、
電話で相談をして来たことがあったらしく、
去年だったか、電話をして来られた時に、また相談があったみたいだったので、

「あー、おばあちゃんは2005年に亡くなってしまっていて、
 今は、孫の私が住職をしているのですが」

「そうでしたか。
 もう何年も前のことなんですが、当時はとてもお世話になったというか、
 もう一度、お話させてもらえたらと思って、今日はお電話したんですけど」

その時の話は、何の相談だったか、内容は忘れてしまったんだけど、
当時の彼女の新たな相談(というか愚痴)に答えながら、
「この人はこの先も、きっとまた電話をして来るだろうな」
と思って、相手の携帯番号を登録しておいた。

「はいはい、〇〇さん。お久しぶりですね」

相手が名乗らぬ先に、そう言いながら電話に出ると、
僕に覚えていてもらってよかったと安心したように、

「ご無沙汰していて申し訳ないんですが、
 どうしても心が落ち着かないことがあって」

(そもそも、何も悩みのない人が、挨拶だけで僕に電話して来る訳がない)

と、今回の悩み話を始めた。

最近の出来事のようだが、
簡潔にまとめると、以下の3項目になる。

①彼女の30代の甥と姪に、それぞれ何かお祝い事があったらしく、
 いろいろ考えて「お祝い」を贈ったところ、
 その二人ともが「お返し」をして来ないので、
 近頃の人たちというのは「お礼」をひとつも言って来ないのかしら。

②甥からも姪からも、贈ったお祝いに対して何のリアクションもなかったので、
 それぞれの親(彼女の兄と妹)に、
 お祝いを贈ったのにも拘わらず、本人たちから何も返答がないことを尋ねると、
 当事者の親二人ともが「知らなかった」的な反応だった。

③「せっかくお祝いを贈ってあげたのに、失礼しちゃうわ」
 と思って、最近ずっと腑に落ちない思いでいるんだけど、
 これってどうなんですかね?

(本人が一番イライラしているのはこの③である)

僕は、取り敢えず、彼女の話を「ふむふむ」と聞き流しながら、
それぞれについて、三つに分けて答える話し方を考えていた。

「つまらないことなのかも知れないんですけど、
 私、ずっとこのことで悩んでいまして、
 先代のおばあさまにご相談させていただいた時も、
 以前、お孫さんのご住職さんにお話させていただいた時も、
 とてもすっきりしたお答えをいただいた記憶があったので」

はい。
僕も、僕のおばあちゃんも、すっきりする答えしか出しません。

「先ずね。
 お兄さんの息子さん、っていうか甥御さんにしろ、
 妹さんの娘さん、っていうか姪御さんにしろ、
 その親である、あなたのお兄さんや妹さんの、
 それぞれの親としての考え方でしょうね」

「と言いますと?」

「そういう、『配慮がない』人たちって、
 家系がみんなそういう人たちなんだってことなのよ」

(ここは取り敢えず、相談者の味方をしておいて引っ張る)

①「僕の親とか親族(僕のママとか叔母ちゃんたち)なら、
  自分の叔母さんから何かのお祝いをもらったのなら、
  お祝いで頂いた金品の半分くらいとか、
  お見舞いだったら3分の1くらいじゃないと失礼に当たるよとか、
  そのお祝いとかお見舞いとかに見合った状況の範囲で、
  きちんとお返しをしておくものなんだからね。と、
  そういう礼儀礼節みたいなことは、ある程度うるさく教えてくれてるけど、
  それは、僕が、僕の親族から教えてもらってるから知っているだけのことで、
  そもそも、その親御さんの育て方ってことだろうから、
  甥御さんや姪御さんたちみたく、
  30代のお子さんたちには分からないんじゃないの?」

「あー、そうかも知れないです。
 考えてみたら、私の兄も妹も、そういう礼儀みたいなことは、
 あまり関心がないのかも知れません。
 私も一度、お祝いを贈ったことを連絡はしたのですが、
 ふぅーんっていう感じの反応でしたので」

(よし、ここでちょっと尻尾が出て来た)

②「うはは。
  んで、それをお兄ちゃんとか妹さんに電話しちゃったの?
  そんなことに関心がないようなおうち方のご子息にお祝いを贈って、
  お礼が返って来ないって親に言っちゃうって、それもすげえな。
  あなたは何を期待していたのかね。
  どうなんでしょう?」

「そもそも、兄と妹は仲が良いみたくて、
 母の三回忌も兄のところだけで法事を済ませるからと。
 でも、後日になって、妹も法事に出ていたようで、
 私だけが外されていたようなんです」

(日頃から、本人のそういう行動がいちいち面倒くさいと思われてるから、
 法事に呼ばれないんだろうなぁ……)

③「うん。
  これで見えて来たじゃん?
  お兄さんも妹さんも、あなたと仲良くする気がないんだよ、多分」

(こういうことは、おかしな配慮をせず、むしろ辛辣に言うべきである)

「考えてみれば、兄はいつも私を認めてくれるところがなくて、
 何か言えば、お前は黙ってろみたいな。
 妹にはそういう感じはなかったんですけど……」

(それは相手が面倒くさいお姉ちゃんだから、妹が口に出さなかっただけかも)

やっと話の本筋が見えて来た。

この人が救かる方法は、自分を知ることしかないので、
僕は話し始めた。

「先ずね?
 お兄さんのお子さんや、妹さんのお子さんのお祝いを、
 あなたが贈ってあげたいと思ったから送った。
 そこまでは良かったのよ。
 でも、あなたは、そのお返しを期待していたんだよね?」
 
「……」

「自分が人に何かを贈る時は、
 『おめでとう』なら『おめでとう』で、
 お祝いしたいっていう、それだけの気持ちで十分なのに、
 『お祝いをしてあげたのにお返しもよこさない』って言っちゃたとしたら、
 それって、本当に『おめでとう』なのかな?

 『ありがとう』って、言って欲しくて人に施すっていうか、
 『見返りを期待して、裏切られた』みたいな話なら、
 最初から何もしてあげなきゃいいじゃない?
 対価や評価を求めて物事を起こすから、
 話が恩着せがましいことになって、結局は自分に返って来ちゃったんでしょ?

 それって『かまってちゃん』だよ」

「あははは! 私って『かまってちゃん』なんですね」

「法事を外されたとか、そういう『面白くない根拠』の裏返しだったとすれば、
 ちっとも『おめでとう』とは思ってなくて、
 お兄ちゃんたちの子供の祝い事に託けて、
 お祝いを贈ることで、自分を認めさせようとしたんじゃないんか?

 そうやとしたら、汚ねぇお祝いやなぁ」

彼女は楽しそうに笑いながら言った。

「あははは!
 今、すっきりしました。本当にそうです。
 今、ご住職が話してくださったとおりです。
 私、今、自分に気が付きました」

僕には、彼女の家族間のそもそもの関係が分からないし、
お兄さんたちに会ったこともないので、
その中の一人だけの言い分しか聞いていないから、
どっちが「正しい」とか「悪い」とかも言えないし、
彼女のお兄さんも妹さんに対しても、
昭和生まれのコモンセンスとして考えれば、
何だかおかしな出方をしているなぁとは感じるが、
だからこそ、
そんな性格の合わない親族と、無理に付き合わなければいいと、
彼女に対してはそう思う。

大体、60代にもなった人間の性分なんて、お互いに変わるはずがないのだから、
変わることができるとしたら「物事の受け止め方」だけなのだ。
今日はそれを彼女に分かってもらうしか、阿弥陀による救済の道はない。

僕は続けて話した。

「お兄さんも、あなたも、妹さんも、
 みんなお孫さんがいらっしゃるような年齢だよね?
 私は独身だから、子も孫も何も、犬くらいしかいないけど。

 あなたもお嫁に出ているのなら分かると思うけれど、
 いくら、小さい時は一緒に寝ていた兄弟でも、
 みんな結婚して、それぞれの家庭を持って、
 況してや、お孫さんまでできてしまうと、
 じいちゃんとばあちゃん、
 長男(長女)に 嫁(婿)、
 次男(次女)に 嫁(婿)、
 そこにプラスして、それぞれ、いとこ同士になる孫まで増えるわね?

 三代目になる孫までできると、
 そこはみんな『分家』しちゃって、それぞれ『ひとつの家系』になってしまうから、
 食べる口が増えるのと同時に、賛否の意見を言う口も同じ数だけ増える。

 だからもう、子供の時のお兄ちゃんとか妹じゃなくなちゃってて、
 それぞれ、じいちゃんとかばあちゃんになっちゃってるのよ」

「うん。確かに、考えてみればそうでした」

「みんな、それぞれ、価値観も変わるし、
 あなたが良かれと思っていても、
 お兄ちゃんの奥さんの考え方が違ってたら仲良くなれないし、
 妹さんのご主人や子供さんたちの考え方が違っていても、
 それはそれで仕方がないじゃない?

 問題は、あなたが自分の価値観を兄妹に押し付けているだけで、
 相手が同意しなければ、徒労でしかないじゃん?

 私はあなたが間違っていると言っているのではないの。

 あなたがあなたの基準で生きようと思えば、
 あなたと違っている人にも会うだろうし、
 考え方がそれぞれ違ったとしても、
 それはそれでいいんだってば。

 『いい人』というのは、自分にとって『都合のいい人』なのであって、
 『あの人は本当にいい人だ』って言ってても、
 自分の都合に合わなくなった途端、
 『あんな人だと思わなかった』ってなるでしょ?」

「うんうん、ほんとにそうですよね。あははは」

「今、あなたに宝くじが10億でも当たろうもんなら、
 お兄さんも妹さんも、手の平を逆返ししたみたいに、
 飛んで寄って来ると思うわ」

「わははは!」
 
「人間というものは、
 どの人もみんな自分中心で物を考えるし、
 自分の都合だけで生きている生き物なんだから、
 頼んでもいないお祝いをもらって、困る人もいるかも知れないし、
 お礼もして来ないと思っても、贈る側の身勝手だったのかも知れないし、
 『お祝いをもらったら、きちんとお礼をしなさい』って、
 社交辞令的な形で躾けてくれてたとしたら、
 本当は、我が子に恥をかかせないように躾ける以前に、
 親本人が、自分が恥をかくのが嫌で躾けてたのかも知れないじゃない?」

「本当にそうですね。
 私、何だかとてもすっきりしました。
 おばあちゃんの時もそうでしたけど、
 お二人ともはっきりおっしゃって下さるでしょう。
 それで私はいつもすっきりするから、今日もお電話したんだと思います。
 私、いつもいつも、先生の本を読んで、
 ああ、本当にそうだなぁって、思い返させられていたんですけど」

「あなたが、私のおばあちゃんの本の内容を『知っている』のと、
 あなたが、私のおばあちゃんの言っていることを『分かった』のとは違います。
 『書き手』や『話し手』が、その経験値の上で表現していることを、
 『読み手』や『聞き手』が、その実体験の中に合致させることができた時に、
 初めて本人の人生に間に合って行くものなのだから、
 『読んだことがある』とか『聞いたことがある』だけでは、
 本当の意味で、『読み手』や『聞き手』であるあなたのものにはならない。

 私のおばあちゃんの時のたとえ話と、私のたとえ話は、
 それぞれ表現こそ違うと思いますが、
 二人とも同じことを言っているだけで、
 仏教としての、法に変わりはないと思います」

最初は何だか、重そうな声で電話をして来た彼女は、
何度も何度も、僕のたとえ話に「わはははは」と笑いながら、
分からなくなっていた自分を捕まえ直したようであった。

人(世間)を追うと、人は自分を見失う。
しかし人は、自分を見失った時なら、仏法に耳が開く。
そして仏法は、耳が開いた人のところへやって来る。

人を追い、法を追わなければ、
人は、人によって傷付き、悲しい思いをする。
人が自分の思い通りにならないことに腹を立て、
自分が、勝手に、自分で傷付いてしまう。

法を追い、人を追わなければ、
人は「自己責任」を認識できるので、
誰かのせいで自分が傷付いたなどとという「被害者根性」がなくなる。

「人を追い、法を追わず」
ではなく、
「人を追わず、法に追われる」
ということが分かれば、
自然に、
「問題は自分(私)の中にある」
ということを、
恥かしいほどに、悲しいほどに、
我が身を知らされるのである。

このように僕は、
求道者としての自分を、
悩みを持った人にこそ、日々、育ててもらっている。

月影のいたらぬ里はなけれども
眺むるひとの心にぞすむ (法然上人)

阿弥陀には隔つる心はなけれども
蓋ある水に月は宿らじ  (蓮如上人)

 

 
 

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あけましておめでとうございます 2019

新年明けましておめでとうございます。

去年はこのブログを一度しか更新できず、
申し訳ありませんでした。

昨年中は何かと時間が作れず、なかなか書けませんでしたが、
今年はもう少し落ち着いて、
経典などの深いテーマについても書いて行きたいと思いますので、
皆様、今年もよろしくお願いいたします。

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ネズミ

昨年から色々と考えることがありまして、
新年のご挨拶を怠っておりました。
もう既に6月ですが、
「新年、明けましておめでとうございます」(ホントごめんなさい)

で、本題。

自室の天井を、夜な夜な走り回る人たちが増え始め、
当初は、
「200g(想定)くらいのだから小さいし、3匹か4匹くらいなら、まぁいいか」
と、そんなに腹も立てずにいたんだけど、
だんだん人数が増え始め、
怒鳴り散らさないと静かにならなくなって、
家屋の様々なところにうんちが撒き散らされることに(汗)

僕は「退治」とか「駆除」という言葉が、
どうしても「自分の都合」みたく聞こえて、
業者に頼んで追い出してもらうことも頭にはあったんだけど、
もし追い出せば、近隣のお宅に引っ越して行くことになり、
右隣の神社には食べる物がないから行かないだろうし、
だからと言って、
左隣の「よしえちゃん」ちに行ってもらっても困るし、
自分の言い訳としては、取り敢えず、
「家賃を払わないで他人の家に間借りをするとは何事か?」
ということにして、
「猫いらず」みたいな、
めっちゃショッキングピンクの「毒餌」を買って来た。

うんちが落ちている界隈に、
説明書き通りに、そういう毒餌を設置して行くんだけれど、
ってことは、
「いつか彼らのご遺体を見なければならない」んだなと、
うっすらと思っていた。

設置から3日目に、
玄関の僕のスニーカーの横に、
一人目の犠牲者が転がっていた。

そっと紙にでも包んで、庭に埋めてお参りしようか、
それとも、箒と塵取でさっと取り上げて、このまま生ゴミのペールに葬ろうか、
ものすごく迷った。

僕は、「阿難」と「チューダ」という2匹のチワワを飼っていて、
これがもし阿難だったら、これがもしチューダだったら、
おいおいと、涙も枯れるまで泣いて抱きしめて、丁寧にお経をあげて墓に葬るのに、
自分が毒を食べさせて殺害して……。

随所に設置したピンクのご飯は、見る度にどんどん減って行く。

「よしよし、食べてるな。うひひひ」

そう素直に思えなくなって来る。

自分が善いことをしているのか悪いことをしているのか、
15年ほど生きる血統書付きの犬なら大切で、
僅か3年ほどしか生きられない名もないネズミの命はどうでもよくて?

しかし、毎晩のように天井の裏で楽しそうに運動会をされても、
うるさくて堪ったものではない。

2匹目の犠牲者は、阿難たちのドッグフードの近くで倒れていた。

ネズミが死ぬ間際に、悲しいとか無念だとか、
「最期に美味しい物を食べて死にたかった」などと、
どんなことを考えていたのかは分からないけれど、
箒と塵取でコロンと掬って、ペールに落とした瞬間、

「阿難やチューダが亡くなったとして、
 それを箒と塵取で取って、ゴミ箱に入れられるのだろうか?」

しかし毎晩の運動会は続く。
夜中に眠れなくて、あまりにも怒り過ぎて、
天井のダウンライトの隙間から、
ネズミが大嫌いな臭いが出るとかいうスプレーを撒き散らしてから、
音がしなくなった。

どこかに引越したのだろうか。
どこにもうんちが落ちていない。

ツバメやコウモリみたいな益獣が、
数ヶ月だけ僕のお寺に棲んで、
また今年も海を渡って帰ってしまう時の、
寂しいけど幸せな気持ちになるのとは違って。

あの運動会に、あんなに腹を立てていたのに、
いい人なんだか悪い人なんだか、
それすらも自分で分からなくなっている、
僕は自分が嫌になった。

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正しいことなどひとつもない

正しいことって、
都合が判断することだ。

基準はいつも曖昧で、
「あの方にやさしくしていただいた」
と言っていた人が、
ひとつ自分の都合が変わった瞬間、
「あんな人だとは思わなかった」
って言うんだ。

お前は国王か?

文句ばかり言っている人を、
愚痴ばかり言っている人を、
僕は、

「あんた、いつから国王になったの?」

って思っちゃう。

自分の判断の基準すら、
自分の都合に因って曖昧だ。

都合の良い時は、

「あんないい人はいない。仏さんみたいな人だ」

とか言うのに、

一転して、自分の都合が変わると、
相手は何も変わっていないのに、
自分の身の回りが変わった途端、

「あんな人だとは思わなかった、悪人や。ひどい人や」

とか言い出す。

お前がブレてるだけじゃん? と僕は思う。

「騙された」と言う言葉は、
それ以前に、自分が何かの利用性(メリット)を感じて、
自分の欲のために、相手を利用しようとした人が言う言葉である。

僕は僧侶として、精一杯の努力をしているけれど、
一般的に評価されやすい方法論を選んでいるだけであって、

「おまい? それは違うぞ?」

ということについては、
絶対に相手を逃がさない。

聞き捨てならない話は、
どこまでも追い込んで追求する。

どれが正しいか、
どのことが正しくないか?

「正しい」ことなんて、
いつもいつも変化し続けることを、
人は能く能く享受しながら生きて行かねばなるまい。

時代・国家・文化。

変化するから「人」なのであって、
「人」が創り上げようとするからこそ、
「正しい」とされることは、
常に変動し続ける。

それを受け止めながら生きて行くことをこそ、
「正しい」って言うんだよ。

「やさしい」って言葉も同じだ。
都合がいいのに作用すれば、
「やさしいね」って言うけど、
都合が悪くなると、
「冷たいね」って言う。

だから、
「正しい」なんていう言葉なんて、
元々存在しないことを、
僕たちは分かって生きて行かなきゃならないんだ。

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思い出に生きても、人生は片付くのか?

考えられない。

僕は100000%否定する。

雑だなと言うより、
非常に傲慢だなと思うよ。

悲しみの主体が自分でしかなく、
主人公が自分だと確信しているところに、
甘えと言うか、政治犯と言うか、
浄土真宗から見ると、
小奇麗さがないというか、
本当に雑で残念さがある。

しかも、親鸞に対する冒涜に近いと、
俺は感じている。

前に進め。

一人で生きて行きなさい。

振り返るな。

ちゃんと一度、自分と闘ってみなさい。

結婚や恋愛や家督相続を舐めてはいけない。

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翻弄

僕が法話に行って、
控室まで訪ねて来る人はたくさんいる。

その多くは、
僕のことを「先生」って言って来るのだけれど、
「これだけ勉強している」
ということを、
「よく勉強されましたね」
って、
お坊さんに御朱印を押してもらいたい人ばかりなの。

氷見に法話に行って、
そういうおじさんが来た。

何々先生の本も読んだ。
歎異抄も研究してる。
あのお寺にもこのお寺にも法話を聞きに行ってます。

彼は切々と、
自分の実績だけを語った。

「で? だから?」

「え?」

「だから何なんだよ?」

「は?」

「あなたは僕にマウンティングしているだけで、
 根本的には救かってないじゃない?」

「?」

「お坊さんをやり込めて、僕の方が勉強してるんだって、
 そう言いたいんでしょ?

 あのね?
 自分がたすかってもいないのに、
 浮輪も持たずに溺れている子供を助けようとする、
 その傲慢さに、あなたは気が付いていないの」

僕がばっさり言うと、
「実は、うちの次男に障害がある」
って言い出した。

それさえ言えば、坊主が黙るとでも思っていたのだろうか?

「障害の子供さんを抱えている人は山ほどいるし、
 特に私はびっくりもしないけど。
 で? 何を知りたいの?」

カードの切り方を間違えたことに、彼はやっと気が付いた。

殆どの真宗のお坊さんはやさしい。

彼は、いちばん会いたくなかった、
僕みたいな、いちばん面倒くさい僧侶に噛み付き、
地雷を踏んだ。

「何々先生の本も読んだ。
 あの先生のお話も聞いた。
 私を目の前にして、
 なのに一度もあんたは救かっていないじゃない?
 バカじゃないの?
 
 自分が勉強して来たことを、
 誰かに褒めて欲しいだけでしょ?

 私はあなたを褒めたり貶したりすることができない、
 そういう真宗の僧侶なんだ。

 あなたに対して、
 よくそこまで勉強されましたね。
 とか、
 いやいや、なかなか学んでおられますね。
 とか、

 そういう受け答えしかされないのが、
 今のあなたの姿だろうね。

 もったいないと言うか、残念と言うか、
 悲しい人だね。
 
 月曜の生ゴミの日にでも、
 あんたのその脳みそ、捨てたらいいんじゃない?」

「……」

「真宗を冒涜してもらっては困る。
 自分の名聞利益のために、親鸞と阿弥陀を使われても困る。
 やりたいんなら、手順を踏んで、お坊さんにでもなれば?」

「いや。実を言うと、次男が障害者でして」

ふっざけんな!

「で?
 息子さんがHDCPだから? 
 何をどうしたいの?

 お辛かったでしょうね。
 大変でしたでしょうね。

 それを私に言って欲しくて法話を聞きに来たんか?

 それは、聞いたフリでしかない。

 障害の子供を、後出しジャンケンにまで使うって何なんだ?

 あんたの子供に対しても失礼過ぎるわ」

弥陀に会ってしまえば、彼は救かると僕は思う。

彼は自分の「自我」に翻弄され続け、
いつまでも苦しみの世界から放たれることはないであろう。

真宗と言う、
目の前に生き易い道があるのに。

根本的な「怠け者」は。
怠け者だから己を正当化して止まず、
いつも、何もかもを他者の責任にして、
いつまで経っても稚拙な言い訳を自分に繰り返す。

誰かが自分を翻弄しているのではない。

生きる道が確定していないから、
自分が自分を翻弄している。

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感謝

感謝ってね。

感謝していない人ばかりが口に出す。

「ありがとう」って、
素直に言えない人が口にする、
とても不便な言葉だね。

僕、本当に大切な人はたくさんいるけれど、
プライドや、
本当に大切なことを、
自分で見抜けない人生を過ごしておられることが、
非常に上からものを見る人生を送っておられることが、

僕の人生で、
いちばん辛い。

ずっと、
生涯を賭して、
気が付くまで、
一緒に歩まなければならないんだろうなって思う。

僕は丁寧に親鸞と生きる、

僕は阿弥陀とずっと生きる。

自分が分かってるなんて思っている時点で、
他力を分かっていないんだからね。

任せることを知らないほどの、
智慧が分からない知識者はどうにもならない。

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