盂蘭盆会(うらぼんえ)

 
「お盆」という言葉の本来の意味は
インド仏教でのサンスクリット語の「ullambana/ウランバナ」という言葉が
中国に渡り、音訳された漢字(当て字)の「盂蘭盆(うらぼん)」が短縮されて
「盆」という言葉として、我が国に定着したものである。
 
「ウランバナ」という言葉を直訳すると
「倒懸(とうけん)の苦」=「逆さ吊り」という意味で
『盂蘭盆経』という経典に記された、釈迦の二番弟子である『目連(もくれん)』の
「マザコン苦悩」が元となっている。
 
目連は「神通力第一の目連尊者」として、数々の経典にも登場する仏弟子なのだが
目連の母親は、息子の目連が、もう「可愛くて可愛くて」溺愛して育てた。
(だから息子の目連が「マザコン」になっちゃうのは致し方ない)
 
ところが、目連には、並外れた「神通力」が備わっていた。
(個人的には、こういう「現実味を帯びない」表現が
 「加持祈祷」とか「占い」と同じくらい気に食わないんだが)
 
その「大好きなママ」を亡くした「マザコン目連」は
得意技の神通力を駆使して、地上やら、天上やら、地獄やら
「亡くなったママが、今どうしているのか」を探し回った挙句に
ママが地獄で「餓鬼」になっているのを発見してしまう。
(「神通力」という表現については、どう考えても非現実的なので
 ここでは、「目連尊者」自身の中の煩悩として捉えたい)
 
「え? マジで? 何で僕のママが地獄なの?」
 
ショックを受けた目連は、釈迦に訪ねる。
 
「何で、あんなに僕を大事にしてくれたお母さんが、地獄で餓鬼道に落ちてるんだ!」
 
釈迦は平然として答える。
 
「だって、お前のお母さんって、結局、お前しか可愛がらなかったじゃん?」
 
「へ?」
 
「誰であろうが、どこの子供であろうが、分け隔てなく可愛がったってんなら
 お前のお母さんも、そりゃあ偉いだろうよ。
 でも、お母さんはお前だけを可愛がっていたんだし
 自分だけがその寵愛を受けることに、お前だって疑問を持たなかった。
 現に今、お前だって、自分のお母さんだけを救おうとしているじゃないか?」
 
「じゃあ、どうやったら僕は、お母さんを地獄の餓鬼道から救けられるの?」
 
「どこの誰にも分け隔てなく、お前自身が、布施(法施)をできるようになるしかないよ。
 そしたらきっと、お前のお母さんは地獄から救かるんじゃないかね」
 
それを釈迦に言われた目連は、雨季の明ける旧暦の7月15日に
安居に集まっている比丘たちに、一生懸命になって法を説くという布施(法施)をした。
(当時のインドでは「安居(あんご)」と言って、雨季が明けるまでの間
 比丘たちは一箇所に集まって、研修会みたいなことをしていたらしい)
 
これを、「浄土真宗」以外の宗派は「施餓鬼(せがき)」と言って
お盆になると地獄の蓋が3日間だけ開く(彼らの信仰ではそう考えるらしい)ので
その間だけ「二泊三日」みたく、先祖がお墓に帰って来るらしく
お墓や仏壇に「供物」を捧げて供養するみたいな、訳の分からん習慣がある。
(茄子とか胡瓜に割り箸を刺して、「これは牛で、これは馬」とか
 そういう発想自体が、僕にはさっぱり理解できないのだが)
 
── 問題は、その『供養』とか言う、恐ろしく傲慢な物の考え方にある ──
 
先祖がいなきゃ、自分も生まれられなかったはずなのに
「供養しないと祟りがある」とか
「先祖供養をしてる私ってけっこう真面目」とか
その『供養』という名の建前に隠れた根拠が謎である。
 
大体、「施餓鬼」って何なんだ?
餓鬼道に落ちた先祖に布施をするって何?
自分の先祖は地獄へ行ったとか、本気で思っているのだろうか。
 
自分を生み育んでくれた先祖に向かって
上から物を見る傲慢にも「程」ってものがある。
 
 「おじいちゃんはお酒が好きだったから」
とか言って、その辺のワンカップとか缶ビールを、お墓に置いてみたり
 「おばあちゃんは甘い物が好きだったわね」
などと、その恩着せがましい“善意に満ち溢れた”お菓子や果物を供え
己を「仏教徒」だと言い張っている割には
その“せっかく”の供物に集まって来る「アリ」とか「カラス」に腹を立てるところが
この人たちの『怪しげな』信仰心なのである。
 
要は、何でもかんでも“自分の利益”というところから
『盂蘭盆』の発想が飛び出しているところがすごい。
 
「マザコン目連」のママが、ホントに地獄で餓鬼になっていた訳ではない。
それは恐らく、目連自身の「自責の念」から生まれた妄想であろう。
目連が「自分を自分に問い質し」続けた結果として
「自分の母親が地獄に落ちている」という、妄想に駆られ
釈迦はそれを諭すことで、目連を救済したのではないかと、僕は考えている。
 
今日、偶然、『暁烏 敏』さんの詠んだ句を見つけた。
 
「餓鬼どもが 餓鬼に施こす 盂蘭盆会」
 
 

「盂蘭盆会(うらぼんえ) その2」に続く

ぐり♪ について

1963年 石川県金沢市生まれ 真宗大谷派教師
カテゴリー: 法要とか葬儀とか パーマリンク

盂蘭盆会(うらぼんえ) への10件のフィードバック

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  2. ピンバック: 盂蘭盆会(うらぼんえ) その2 | 浄土真宗のこと

  3. 奥山 より:

    施餓鬼と盂蘭盆会は分けて考えるとよいかもね・・・。

  4. ぐり♪ より:

    奥山さん、はじめまして。
    コメントをありがとうございました。

    日は、一日として延び、
    日は、一日として過ぎるものであります。

  5. りょうこう より:

    自分自身が餓鬼なのだということを自覚することにより、南無阿弥陀仏という他力の心をいただける身になれると考えて良いでしょうか。
    浄土宗の信者です。

    • ぐり♪ より:

      りょうこうさん、はじめまして。
      お返事が遅くなってしまい、大変失礼いたしました。

      頂いていたコメントが、こちらの事情で文字化けしてしまっていて、
      ようやく自分のブログにログインできたような次第でございます。

      ご質問いただきました件について、私なりの見解をお答えします。

      お腹が減れば、ご飯も食べたくなるし、
      お腹がふくれれば、うんちもしたくなるし、
      暑くてたまらない時は、扇風機やエアコンのある所にいたいし、
      寒くてたまらない時は、ストーブや暖房のある所にいたいし、
      好きな人ができれば、付き合ってほしいと思うようになるし、
      付き合っていた人に去られれば、もう一度振り向いてほしいと思う。
      生きていてほしいと思う人が死ぬ時には、どうか死なないでと思うし、
      身内に病人が出れば、何をやっていても楽しいと思えなくなる。

      人間が生きているということは、所詮そういうことなのです。
      それに抗って生きることは、まず無理なのではないかと思います。

      りょうこうさんが「餓鬼」という言葉の定義を、
      どのように受け取っておられるのかは分かりませんが、
      「他力の心をいただける身」を「自覚」できた時点で、
      それは、既に「自力」でしょう。

      「自然(じねん)」=「自ずとそうなる」

      我が「はからい」だけではどうにもならなくなった時に、
      阿弥陀仏に、
      「煮るなり焼くなり好きにして下さい」
      と思えることが、他力に出会うことになるのであって、
      「はからい」が「自己」に主導権を握らせている間は、
      残念ながら「自力」の世界から抜け出すことはできません。

      法然上人が仰っておられる「他力」について、
      私ども浄土真宗門徒が正しく理解するためには、
      親鸞の弟子の唯円が書いたとされる「歎異抄」の、
      第二章の最後の言葉に、大きなヒントがあります。

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      【原文】
      「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。
       仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。
       善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。
       法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、
       むなしかるべからずそうろうか。

       詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。
       このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、
       面々の御はからいなりと」

      【私訳】
      「阿弥陀仏が十八願で誓われた、
      『私の名を呼ぶ全ての衆生を救い切ることができなければ、
       私は覚りをひらくことができない』
       という本当の願いが真実ならば、お釈迦様の説法も真実でしょう。
       お釈迦様の説かれたことが真実であれば、
       善導大師の仰っていることも真実に違いありません。
       善導大師がいただかれたことが真実であれば、
       法然上人の仰ることに嘘偽りがあるはずがありません。
       法然上人のお言葉が真実であれば、
       この親鸞が言うことも、嘘や偽りがある訳がないでしょう。

       このように私のような愚かな者の信心とはこの程度のものなのです。
       ですから、
      「念仏が浄土に行けるという決定的な根拠になるのか?」
       などと、疑心暗鬼になって、そんなことを議論している間は、
       あなたたちが自分の頭で判断しようとしているのだから、
       既に阿弥陀仏にお任せしていないということなのです。
       信じるとか信じないとかを自分で決めようとしている以上、
       それは「自力」の枠を出ることがないということですから、
       好きになさったらどうでしょうか」
      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

      私はこの件が、歎異抄の中でいちばん好きなところなのですが、
      親鸞が「布教の放棄」とも言えるほどに厳しく言い放った言葉として、
      「おまいらが自分で判断できると思ってる時点で、
       そんなものは自力でしかないんやから、好きにしろや」
      という意味でしょうから、
      この言葉は「他力」と「自力」の違いについて、
      徹底的に強く定義しているんだなと思います。

      これで答えになってるのかしら?(汗)

      私の文章力ではこの程度くらいまでしか説明できませんが、
      もう少し詳しくということでしたら、
      一度、以下まで直メールを頂ければと思います。

      (8月のお盆前なので、ずーっとヒマでゴロゴロしてるし 笑)

      kouhei1112@hotmail.com

  6. 4416 yama より:

    りょうこうでございます
    もうおわかりになっているかと存じますが
    山内良弘でございます
    他力の心を知るのが浄土宗の信者にとってどんなに難しいか
    改めて知ることとなりました
    これからもお智慧を拝借いたしますので
    どうぞよろしくお願いいたします

  7. ぐり♪ より:

    あらまっ!
    りょうちゃんじやございませんか♪
    (「いいね」大杉だわよ 笑)

    おじいちゃんの本が無事に届いたようでよかったです。

    浄土仏教の教えを「難しく」しているのは、
    社会的に「知識に長けた人」で、
    浄土仏教の教えを「易しく」受け取ることができるのは、
    社会的に「知識がなくても」どうでもいい人です。

    やまちゃんが色々な解釈をしてるかもって思いますが、
    何でも鵜呑みにせず、
    質問は質問で、訊いて来てね。

    • 4416 yama より:

      やまちゃんです。

      ぐり♪さん、お言葉ありがとうございます。

      >浄土仏教の教えを「易しく」受け取ることができるのは、
      >社会的に「知識がなくても」どうでもいい人です。

      そうなんですね。
      なんだか、気持ちが軽くなるような気もしますが、
      とても難しいことのようにも感じてしまう自分がいます。

      先日のお盆で、亡父の初盆法要を執り行うことができました。
      オヤジの死を目の当たりにし、
      それをきっかけに仏道に出会わせていただくことができました。
      オヤジの死は、私を仏道に目覚めさせるという大きな意味を持っていたと思い、
      何事にも感謝できる自分に気付いたという思いです。

      施餓鬼法要も行い、初盆の精霊棚は作りましたが、
      オヤジの魂はそこには居ないよねと思いながら、南無阿弥陀仏を唱えさせていただきました。

      これから、お祖父様の本についてきっと質問しますので、
      どうぞよろしくお願いいたします。

  8. 4416 yama より:

    >親鸞が「布教の放棄」とも言えるほどに厳しく言い放った言葉として、
    >「おまいらが自分で判断できると思ってる時点で、
    > そんなものは自力でしかないんやから、好きにしろや」
    >という意味でしょうから、
    >この言葉は「他力」と「自力」の違いについて、
    >徹底的に強く定義しているんだなと思います。

    自分で判断できる、いや判断できない、
    そんな場面に出くわすのが、日常生活かなぁと感じます。
    ぐり♪さんのように、
    自分が接する人々(思い通りに反応してくれない人も含めてw)に対して、
    「阿弥陀様の遣わされた鏡だなぁ」と感じられるようになれたらと思っています。

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