数日前から、またしても祖母の本棚から窃盗した
「亀井 鑛」さんの『父と娘の清沢満之』という本を読んでいる。
「亀井 鑛」さんの『父と娘の清沢満之』という本を読んでいる。
「清沢満之(きよざわ・まんし/1863~1903)」は、真宗大谷派の学僧で
明治時代にあって、先進的な西欧思想を取り入れ
当時としては画期的な『近代的仏教信仰』を確立したと同時に
その門下に「曽我量深」や「暁烏敏」などの逸材を生んだことで知られている。
明治時代にあって、先進的な西欧思想を取り入れ
当時としては画期的な『近代的仏教信仰』を確立したと同時に
その門下に「曽我量深」や「暁烏敏」などの逸材を生んだことで知られている。
暁烏敏さん、藤原鉄乗さんと共に、『加賀の三羽烏』と呼ばれた僕の曽祖父も
当然の如く、その門下生であったことから
彼の著作の随所にも、「清沢満之」の言葉が遺されている。
当然の如く、その門下生であったことから
彼の著作の随所にも、「清沢満之」の言葉が遺されている。
今夜の「祠堂経」のお話で
僕は、この「亀井さん」の本から見つけた
清沢満之の法話にあった、興味深い「例え話」を取り上げた。
僕は、この「亀井さん」の本から見つけた
清沢満之の法話にあった、興味深い「例え話」を取り上げた。
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ここに二軒の家があって、一軒では、毎日家族が喧嘩ばかりしている。
一方は、至極仲が良いというので、喧嘩ばかりの家の方の主人が
仲良しの家を訪ね、どうして仲良くできるかの秘訣を訊ねた。
一方は、至極仲が良いというので、喧嘩ばかりの家の方の主人が
仲良しの家を訪ね、どうして仲良くできるかの秘訣を訊ねた。
すると、『仲良し一家』の主人から
「あなたの家はきっと、”善人”ばかりのご家族でしょう。
我が家は、”悪人”ばかりの集まりですから、それで喧嘩がないのです」
我が家は、”悪人”ばかりの集まりですから、それで喧嘩がないのです」
という、よく分からないような答えが返って来た。
どうにも意味が分からぬまま帰った翌朝のこと、
隣の仲の良い家が、何やら大騒ぎをしている。
どうやら、そのお宅に飼われていた馬が、家の中へ飛び込んで大暴れしたらしい。
隣の仲の良い家が、何やら大騒ぎをしている。
どうやら、そのお宅に飼われていた馬が、家の中へ飛び込んで大暴れしたらしい。
これは喧嘩が始まるぞと、慌てて覗きに行くと、そこのおじいさんが
「私が悪かった。夕べ、馬を繋ぐ時に、私が不注意だったんだ。
そのせいで、こんなことになってしまった」と言う。
そのせいで、こんなことになってしまった」と言う。
と、おばあさんが出て来て
「この私が不注意でした。私が悪いのです」と言う。
すると、若い主人が出て来て
「年寄りは早く寝て当然なのに、若いこの私が不注意だったのです。
私にこそ責任があります」と言っていると、その奥さんが
私にこそ責任があります」と言っていると、その奥さんが
「いいえ、それにも気が付かなかった私が悪かったんです」と
『仲良し一家』が、みんなで言い合っているのを見せ付けられて
やっと『喧嘩一家』の主人は気が付いた。
やっと『喧嘩一家』の主人は気が付いた。
「なるほど。隣のご主人が
『我が家は”悪人”ばかり集まっているから喧嘩にならない。
お宅は”善人”ばかりだから喧嘩ばかりなのでしょう』
と教えてくれたのは、このことだったのか。
我が家も見習って、”悪人”ばかりの家にしたいものだ」 ※
『我が家は”悪人”ばかり集まっているから喧嘩にならない。
お宅は”善人”ばかりだから喧嘩ばかりなのでしょう』
と教えてくれたのは、このことだったのか。
我が家も見習って、”悪人”ばかりの家にしたいものだ」 ※
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浄土真宗でいうところの「悪人」とは
「自分の愚かさ」や「人間の不完全さ」を知っている人のことを指し
「内観」を凝らし、「自己」を省察することによって
「私は凡夫でしかない」ことの自覚を、きちんと受け取っている人を言う。
「自分の愚かさ」や「人間の不完全さ」を知っている人のことを指し
「内観」を凝らし、「自己」を省察することによって
「私は凡夫でしかない」ことの自覚を、きちんと受け取っている人を言う。
反対に、浄土真宗でいうところの「善人」とは
「倫理道徳」や「自力で成し得る完璧」を求める人のことを指し
「他」の評価に価値観を置き、「自己」の不足を省みることができない為に
「私は凡夫でしかない」ことの自覚を、きちんと受け取れない人を言う。
「倫理道徳」や「自力で成し得る完璧」を求める人のことを指し
「他」の評価に価値観を置き、「自己」の不足を省みることができない為に
「私は凡夫でしかない」ことの自覚を、きちんと受け取れない人を言う。
この『悪人』という言葉を
いつまでも「倫理道徳」の価値観=「自分の物差し」でしか量る方法を知らず
「罪人」というような意味としてしか受け取れないことにこそ
「聖道門」の”大きな苦しみ”があるのではないだろうか。
いつまでも「倫理道徳」の価値観=「自分の物差し」でしか量る方法を知らず
「罪人」というような意味としてしか受け取れないことにこそ
「聖道門」の”大きな苦しみ”があるのではないだろうか。
滝に打たれたり、座禅を組む前に、自分を見たらどうか? と、僕は思う。
『じゃんじゃん打って来る滝』だの、『座禅の時にピシッと叩いてくれる人』だの
結局は、他の何かの「力」を借りてるだけなのに
「これぞ覚り」と”思い込んで”いること自体に問題がある。
「これぞ覚り」と”思い込んで”いること自体に問題がある。
(そういう人たちというのは、難しくて大変なことに価値を感じてしまう
謂わば「ドM」なんじゃないのかしらねぇ……。 ← やや「おすぎ」モード)
謂わば「ドM」なんじゃないのかしらねぇ……。 ← やや「おすぎ」モード)
何も「悪いこと」を推奨している訳ではない。
「悪い」と知っていて、敢えて行う「悪行」自体が
既に「聖道自力」の発想なのであり
申し訳ないけど、彼らに”塗る薬”はない。
「悪い」と知っていて、敢えて行う「悪行」自体が
既に「聖道自力」の発想なのであり
申し訳ないけど、彼らに”塗る薬”はない。
聖道こそ”ナルシズム”の骨頂なのではないかと、僕は考えている。
自分こそが「善人で」「偉くて」仕方がないのだ。
(だから、自分より「悪人」で、自分より「偉くない」他人と諍いをする)
自分こそが「善人で」「偉くて」仕方がないのだ。
(だから、自分より「悪人」で、自分より「偉くない」他人と諍いをする)
「あいつは偉そうに、何を言ってやがるんだ?」
そう思った”私”こそが、一番「偉そう」なのである。
これは、僕のことかも知れないし、あなたのことかも知れない。
※ 亀井 鑛(かめい・ひろし) 『父と娘の清沢満之/大法輪閣』 P.63より抜粋