『光顔巍巍』

 
浄土真宗に『嘆佛偈』という偈文がある。
 
偈文とは詩とか歌というような意味で
浄土真宗では浄土三部経の中から短く抜粋された部分を
偈文として読誦しており
金沢では特にお盆のお墓参りなどで『嘆佛偈』が多く読まれる。
『嘆佛偈』は次のような言葉から始まっている。
 
「光顔巍巍 威神無極 如是燄明 無與等者
  日月摩尼 珠光燄耀 皆悉隠蔽 猶若聚墨」
 
【意訳】 世尊(世自在王仏)のお顔は気高く輝き、その神々しいお姿は何よりも尊い。
      その光明には何ものも及ぶことなく、太陽や月の光も宝玉の輝きも
      その前にすべて失われ、まるで墨のかたまりのようである。
 
これを著した頃の『阿弥陀仏』はまだ修行中で
『法蔵菩薩』という「菩薩」の位にあられた。
 
法蔵菩薩が「光顔巍巍(こうげんぎぎ)」と譬えたほど
世自在王仏の表情が輝いて見えたのは何故なのだろう。
 
『嘆佛偈』の最初のこの言葉を読む度に、僕はいつも考えていた。
 
いくら世自在王仏だからといって
魔法使いやウルトラマンじゃあるまいし
本当に顔から光を放っていた訳ではないと思う。
世自在王仏を見上げた時
法蔵菩薩にはそう見えたのではないか。
法蔵菩薩の心がそのように感じたのではないか。
 
相手の顔が輝いて見える時とはどんな時なのだろうと
僕はずっとこのことが理解できなかったのだが
今日、たまたま曽我量深師の本を読んでいて
やっとその意味が分かりかけて来た。
 
これはあくまでも僕の推測なのだが
実は『世自在王仏』の顔が輝いていたのではなくて
『法蔵菩薩』自身が光を放っていたのではないだろうか。
 
人は自分で自分を見ることができないからこそ
阿弥陀仏という鏡が必要なように
『法蔵菩薩』は自分が輝いていることを
自分を映す鏡となった『世自在王仏』の輝きを見て
初めて知ったのではないだろうか。
 
暗がりを歩く時、懐中電灯を点すとよく見えるように
見える対象しか目に入らない時は
自分が光を放っていることが分からない。
 
自分が真っ暗な中にいて、誰かに懐中電灯の光を当てられたら
こちらが眩しくて仕方ないのと同じように
照らされた方は、相手の光を眩しいと感じるけれど
照らしている相手は、こちらの姿が見えるだけで
自分が光を放っているという認識はないのである。
 
僕が出会う色々な人が僕を照らす。
僕が出会った人を眩しく感じる時は
僕が放っている光なのかもしれない。
 
僕に出会う色々な人が僕に照らされる。
僕に出会った誰かが僕を眩しく感じる時は
その人自身が放っている光なのかもしれない。
 
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②『光顔巍巍』〔金沢真宗学院異訳〕
金沢真宗学院では、泊りがけの研修などで、夜の懇親会が始まると必ず
お燗酒の入ったやかんを持って、嬉々としてお酌に走り回る人の表情を指して
別の意味で『光顔巍巍』と呼ぶ場合がある。
この場合、照らす方も照らされる方も、全体的に赤みを帯びた顔になることが多い。
 

ぐり♪ について

1963年 石川県金沢市生まれ 真宗大谷派教師
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