明朝体がいちばん嫌いなのに、
編集画面はいつも明朝だ。
このブログを書く意欲を相当に妨げる。
洋画のDVDを山ほど借りて来て、
死ぬほど映画を観まくる時期が、
年に何度か訪れる。
一気に30作品くらいを観続ける。
前回のピークで納得できた作品は、
『そして、デブノーの森へ』
だけだったが、
脚本や見せ方に、ちょいちょい「雑さ」があり、
カメラワークが「懲りすぎていまいち」な感が、やや否めなかった。
今回、いい本(脚本)と演者が噛み合っていたのは、
『パリ3区の遺産相続人』という映画だった。
結末はどうでもいいくらいつまらなかったが、
あの収め方しかない課題であったし、
経緯の描写に重点を置いて撮りたかった本題であることは、
痛いほど伝わって来た。
クロード・ルルーシュ監督作品を思わせるような、
カメラワークも巧く、
フランス語と英語がきれいに混在する、
テクニカルな作品だったと思う。
僕がものすごい勢いで、山ほどの洋画を観続ける理由は、
自分のコモンセンスが、
本当に見極めなければならない何かと、
ずれ始めているのではないかという、
強い疑いが僕の中に発生し、
自分を信じられなくなる時期が、周期的に起こるからだろう。
主観だけで走り続けると、
客観を見失う。
そのことを僕にまざまざと教えてくれたのは、
浄土真宗だった。
親鸞は、これを遺したかったのではないか。
歎異抄を綴った唯円上人は、
これを遺したかったのではないか。
この辛さと責念から、
たった一人の僕を解放するために。
仏教者として生きる道は、
今思えば、
僕が選んだのではなく、
阿弥陀に選ばされたことを、
生き方が不器用だった自分を、
この先も不器用にしか生きられないこの僕を、
阿弥陀が捕獲してくれたのだったと、
心から感謝している。
今日は、自坊の平成講だった。
13:30からなのに、
午後から降り出した雨は、滝のような音を立てていて、
僕は内心、
「今日はお参りの人が少ないといいな」
と思った。
大きな会場で、
例えば200人とか300人とか、
それはそれで話がしやすいのだが、
5人とか6人とか、
参詣の少ない、小ぢんまりとした講座も、
真の心が伝えやすく、
僕の心の核に迫ることを、本気で素直に話せる。
13時を過ぎた頃から、雨は少し小さくなって来て、
僕の期待通り、参詣の門徒は6人のおばあちゃんだった。
阿弥陀経を上げて、御文を読んでから、
僕は唐突に法話を切り出した。
「さっきまで、ひどい雨やったな」
「うんうん。今日はお講に来ないでおこうかと思うた」
「今朝、畑に葱を植えとったらどうや?」
「あー、助かった。昼から水を撒きに行かんでいいと思う」
「久しぶりに昔のお友達と会うのに、おめかしして、口紅の一本も引いとったらどうや?」
「えいクソ、何で今日に限って雨が降るんじゃと思うわい」
「そやな。今日はいい天気やねって、どんな天気のことを言うんやろう?」
「都合のいい天気や」
みんなが笑った。
僕は続けた。
「上坂のばあちゃんと……。
まだ施設に入る前やったけど、
今と同じ話をしたことがあった。
いい天気は、大人だけのものじゃなくて、
運動会でかけっこが得意な子は、てるてる坊主を10匹吊ってでも、
明日は雨が降らんといてくれと思うけれど、
いつもビリになる子は、てるてる坊主を逆さに吊ってでも、
明日は雨が降って欲しいと思う。
そやけど、
明日が遠足やったら、どっちの子も晴れて欲しいと思う。
子供にとっても、天気は都合や。
畑に水を撒かんなん日に、雨が降ってくれたら、
あー、助かったと思うけれど、
眉を描いて口紅を引くと、
何で今日に限って雨が降ると腹が立つ。
そういうことやろ?」
「うんうん、そやそや」
「どんな人間も、自分の都合で動いとる。
自分の都合で動くから人間なんや。
自分の都合で動いたらいけないと、
どんなに道徳心を持っていても、
人は自分の都合に沿って生きる。
隣の兄ちゃん、見てみろや?
毎日みたいにミサイル飛ばしとる」
「あれ、どうにかならんもんかね?
ニュース見る度に、いやーになって来る。
何でこっち(日本海側)にしか撃たんのや?」
「確かに、毎日いやになるわね。
そやけど、
あの子かて、まだ30歳そこそこの子供や。
叔母ちゃんの旦那さんやらお兄さんを粛清したらダメやて、
そんなこと、人道的にはよう分かっとったはずや。
立場が人の心を歪曲することがある。
違うおうちに生まれていたら、
違う国に生まれていたら、
あんな人生じゃなかったかも知れん。
高田さんちの二番目やったり、北さんの長男やったら、
あんなこと、思いも付かんかったやろう。
でも、生まれてしまったんや。
私は隣国のあの子の肩を持つ気はないけれど、
男に生まれて来ようが女に生まれて来ようが、
日本に生まれて来ようがドイツに生まれて来ようが、
南アフリカだったりサウジアラビアだったかも知れないけれど、
一度、人間として生まれて来た以上、
その条件が整っていてしまったら、
今から変えられることなんて一つもないんや」
「うん。そうやね……」
「昨日、金沢に来てた皇太子も同じや。
狙って皇太子に生まれて来た訳じゃない。
北島さんのところに生まれてたかも知れないし、
橋本さんのところに生まれてたかも知れないし、
産むか産まぬかは親の判断やけど、
子供は親を選べんのやから、
生まれたところに準じて生きなければならないじゃない?」
「ほんなら、昨日のニュースの、警察官が嫁と子供を殺したって、
あれはどうなんやろ?」
「うん。
本来、あってはならない話やと思うし、
非常に残念やとは思うけど、
女房だけじゃなく、二人しかおらん子供も、
三人まで殺めたとなると、
あのお父さんにも、何かの事情があったんじゃないかね。
但し、ニュースは15秒くらいで取り上げて、
さて、次のニュースです、って言うわ。
うちらは視聴者やから、15秒なり30秒で流されても、
ふんふんと聞いて流してるだけやけど、
今からあの人の家族の中に、
どんな辛いことが押し寄せて来るか?
殺めた警察官のお父さんにも、両親がおって親戚もおる。
殺された奥さんにも、両親がおって親戚もおる。
何で? 何で? どうしてこんなことになったん?
親族郎党、みんなその悲しみと苦しみに、
周囲の色んな人が巻き込まれて、
実は今から長い長い裁判になる。
殺した側の人の正直な供述や、
長い長い裁判の詳細って、
ニュースでは報道されないんだよ。
もしか、奥さんが育児ノイローゼだったり、
本当に真面目な警察官過ぎて、
全部、殺してしまって、
僕が生きて罪を被って償えば、
女房も子供も幸せかも知れないと、
彼がそう思って起こした行動かも知れん。
道徳的に良い判断とは言えんけれども、
本人に本当の気持ちを訊いてみんことには、
何が辛かったか、何が苦しかったんか、
ただテレビのニュースだけ見て、
ああやこうやと、
結局は、我が身の娯楽に使うとるんじゃないのかと、
そういう目を、時々持って、
私は皆さんと生きて行きたいと思っています」
みんな神妙な顔をしていた。
「大きいお寺に生まれて来んでよかった。
私にちょうどいいサイズのおうちに生まれて来れてよかった。
さて、今日は戴いたケーキがあるから、みんなで食べよう。
昨日、隣町の報恩講で貰って来た和菓子もある。
上手に雨が降ってくれて、お参りの人も少なかったから、
取り合いにならんように、ちゃんと合うた人数が揃うとるもんやな」
「わはははは! ケーキ、食べる食べる!」
「私は和菓子の方が好みや!」
譲り合ったり分け合ったりしながら、
参詣のおばあちゃんたちは楽しそうだった。
帰りに寺の山門をくぐれば、
その途端に、みんな元の生活に還る。
何に迷い、どんなことにぶつかっても、
避けて通れる道など一つもなく、
それをそのまま受け止めて行くしかないのだ。
それが事実であり、
それが真実であることから、
目を離してはならない。